安田講堂 1968-1969

発売直後から気になっていたのですが、ついに決心して買いました。


僕は東大生です。
この僕が所属している大学は、35年以上前、学生闘争の舞台となりました。
しかし、僕はこれまで、その実態をまるで知りませんでした。
そういうことがあったと、話に聞いた程度です。
それではいけないと前々からずっと思っており、適当な本を探していました。
それで読んだのが、この本です。


この本は、安田講堂に立てこもった、全共闘の「本郷学生隊長」が書いたものです。
つまり、当事者による証言といえます。
検証はしませんが、参考文献等が詳細にわたって挙げられているので、ここに事実として書かれていることは事実と受け入れることにしました。


その上での印象は、「苛烈」。
当時、学生が大学当局や国家権力、その権化たる機動隊と戦っていた。
そのことのみにおいても非常に衝撃的でした。
戦った人々は逮捕され、約束されていたはずの将来を文字通り棒に振りました。
懲役を受けたり、失明したり、半身不随になったりする人もいました。
それほどまでに彼らは戦いました。
敬意に値することだと思います。


しかし。
先に述べた通り、この本は全共闘の中の人が書いたものであり、当然そういうフィルターがかかっています。
事実関係は認めるにしても、その主観的描写は鵜呑みにできません。
この本においては全共闘が正義で、大学当局、民青(日本共産党)、そして戦わなかった学生たちを唾棄すべきものとしています。
また、全共闘の大学闘争が敗北したために、現在の日本の状況は腐ったものであると切り捨てています。
これはどうにも胡散臭いと言わざるをえません。


今の大学生には、政治運動をしている団体やサークルをうさんくさいと感じる傾向があります。
僕もその一人です。
たとえばうちの大学には「すとかい」という名で活動している革マル派の団体がありますが、うさんくさい団体の代表だと見られています。
同じような扱いを受けている団体として民青同盟がありますが、これは言うまでもなく日本共産党の下部組織です。
また、学生自治会共産党系であるという話も聞きます。
そして、全共闘のような組織にも同じにおいを感じるわけです。
こういう風潮にはいくつかの理由が考えられますが、その中でも「平穏な大学生活を送りたい」というのは大きなものとして挙げられると思います。
「活動家」の人たちはこのような考え方を惰弱だとでも言うのでしょうが、これは悪いことだとは思えません。
大学生は社会に資する義務はなく、社会に資する準備をする義務を負うものであると僕は理解しています。


もっとも承服しがたいのは、教養課程をゴミだと言っていることです。
印象でものを語らないでいただきたい。
さらに自身の印象を補強すべく、たった一人の権威者(青色LEDの開発者:中村修二、別に教育学の専門家ではない)の単なる感想を、真実と置き換えています。
曰く、「大学へ入ると二年間の教養課程があり、そこで再び大嫌いな文化系科目を履修しなければなりません」。
入る前に調べろよ。
ていうか、こういう人を専門バカというのではないですか?
立派な研究者として業績を残したのは結構。
でも、そういう人だけじゃダメだと考えられているから文理両方に通じる人間を養成しようとしているんでしょうに。
前期教養課程は進路を考える上でも非常に重要です。
その有用性は、多くの東大生によって認められていると感じています。


そして最後に。
現在の大学は腐っていると言いますが、失礼千万。
ここで勉学に励んでいる1万人以上の現役東大生を侮辱するのはやめて欲しいですね。
僕たちは真剣に勉強にうちこんでいます。
遊びでトウダイセイやってるわけじゃないんだ。


他にも突っ込みどころはたくさんありますが(たとえばp325注2)、このあたりでやめておきましょう。


まとめるとするならば、事実の認識には役に立ったがこの人の立場には反感を覚えた、というところでしょうか。


――東大生を、無礼るな。


安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)