日本の宗教に関して 2

前に書いてから随分とたってしまいましたが宗教考察の続きを。

前回の結論としては、キリスト教は神を含まない形で民衆に受容されているということでしたが、しかしよく考えてみるとこれは実は何も言っていないのと等しいですね。
日本人が特定の宗教を信仰していないことについて何らかの示唆を与えるものではありません。

では今回はちょっと視点を変えて考えてみましょう。
過去に日本人は特定の宗教を信仰していたことがあったでしょうか。
邪馬台国におけるシャーマニズムや、民間に根強く残っているアニミズムは宗教に分類すべきでしょうか……
まずは宗教を定義する必要がありそうですが、この場合の宗教は日常生活に強い影響力を及ぼすことが重要になってきそうです。
神(もしくはそれに類するもの)の名の下に、信仰を主目的とした活動をするかどうか。
このあたりでひとまず定義しておきましょう。
たとえば、収穫に関する祭事は収穫に感謝する場合においてのみ宗教的行為であり、現在のようにその名残である行事のみを行い、実質的にその目的から離れてしまっている場合は宗教的行為とは扱わないことにしておきます。
……しかしこの例の場合は微妙ですね。
確かに五穀豊穣を感謝し、祈念するという目的はあったでしょうが、それと同時に当初からいわゆるハレとしての意味も当然持ち合わせていたでしょうから。
うーん。この場合はいちおう宗教的意義を失っていないということで、初期のものは宗教的行為と認めましょう。

とすると日本人はやはり宗教を持っていたことになります。
では、アニミズム的な八百万の神への信仰は認めた上で、他のものはどうでしょうか。
すぐに思いつくものとしては仏教あるいは神道が挙げられます。

仏教については、江戸時代に幕府の方針によりすべての日本人はそれぞれ特定の寺院の檀家となっていました。
中には半ば機械的に割り当てられたその教義に懐疑的だった人ももちろんいたでしょうが、おそらく大多数は無批判に受け入れ、それらの寺院の教えに帰依していたでしょう。
では、それらの人々はかつて信仰の対象であった八百万の神はどうしたのでしょうか。
少なくとも棄ててはいないものと思われます。
根拠は薄弱ですが、つい最近まで祟りなどの思想が依然として残っていたことなどが挙げられます。
確証はありませんが、今でも田舎の古老たちはきっとそうなのではないでしょうか。一度フィールドワークで実際に調査してみたいものです。

よって、この時期には八百万の神と仏教の両方を信仰していたことになりますね。
前回の議論を踏まえると、ここで問題になるのは仏教をきちんと宗教として受容したか否かという点です。

上での宗教の定義によると、仏教を宗教として受容したか否かというのは形式だけではなく、信仰を主眼とした行動が行われていたかどうかという点によって区別されます。
現在の日本人において仏教がもっともあからさまに眼前に現れるのは、おそらく葬儀においてでしょう。
では、葬儀における仏教は結婚式におけるキリスト教とは違うのでしょうか。
個人的には同じようなものだと考えます。

しかし、ここではまた別の問題が現れてきます。
それは日本人の死生観です。
葬儀そのものは形式だけのように見えますが、日本人のうちでも相当の人々が仏教をもとにした死生観を持っているように思います。
いわゆる極楽、地獄ですね。
これは思想体系としての仏教を受け入れていることの表れと言えます。
が、それはそのまま宗教としての仏教を受け入れていると言えるとは限りません。
この死生観に基づいて日本人は何らかの宗教的行為を行っているでしょうか?
先にも述べた通り、葬儀は形式だけなので除きます。
他に考えられるものとしては、仏壇や墓に供え物をするというものが挙げられます。
これは立派に宗教的であると言えましょう。
しかし、ここにももはやゴータマ・シッダルタは存在しません。
仏と化した故人に対する信仰はあっても、そもそもの仏への信仰は日常的にはほとんどみられないと言っていいでしょう。
こうなるともはや旧来の八百万の神の一人としての故人があると考えて差し支えないように思います。

したがって、仏教は八百万の神への信仰に取り込まれた形で受容されたと言えます。

次に神道について述べたいところですが、そろそろ帰宅したい(今は大学から書いています)のでまた今度です。